今治タオルが歩んできた道。
タオルと言えば「今治」という程、日本ではかなり浸透してきた今治タオル。
その歴史は古く、紐解いていくと200年ほど前からのつながりがそこにはありました。
・温暖な気候と恵まれた自然を生かした産業
今治地方ではその温暖な気候により、江戸時代から綿栽培が盛んに行われていました。
1800年頃には、九州の絣織物を参考に「伊予絣(いよがすり)」を誕生させました。
「伊予絣」は織や染に手間を掛けた大変高価なものでした。
江戸時代後期にかけては木綿が全国に広がり、大阪では今治で作られた木綿のことを「伊予木綿(いよもめん)」と呼びました。
ところが、明治時代に入ると、安くて品質の良い輸入木綿が浸透し「伊予木綿」は窮地に立たされていました。
ここで今の今治タオルの基礎を作り上げた偉人、「矢野七三郎」と「阿部平助」が登場します。
矢野七三郎はそれまでの技術を生かし「綿ネル(綿織物を起毛させた生地)」の製造を始めました。
また綿ネル業を営んでいた「阿部平助」は各地で広まり始めていたタオルに目を付け、今治にあった綿ネル機をタオル織機へと改良していったのです。
その後新たなタオル織機が開発されていき、生産性も飛躍的に向上した現在の「今治タオル」へと続いていきます。
・決して順調ではなかった「今治ブランド」
今では「今治ブランド」と呼ばれるほどのタオルはとても有名ですが、有名になる前からも「今治産の質の良いタオル」というものはもちろん存在しています。
現在の「今治タオル」のブランドに行き着くまでには、決して順風満帆だったわけではありませんでした。
明治以降順調に生産を伸ばしていった今治産のタオル。
しかしながら第二次世界大戦では空襲の被害により、今治の工場のほとんどが焼け落ちてしまいほとんどが「0」の状態になってしまったこと。
さらに2000年初頭には、低価格な中国産のタオルの輸入量が増えてくると、国産である今治や泉州のタオルは大打撃を受けました。
今治市は政府にセーフガード(輸入制限)を申請するも、却下されるなどとても厳しい状況に追い込まれていきました。
しかし、このセーフガード申請の却下によりタオルの本質を考える良い機会と考え、今治市や組合が協力して今治のタオルを世に広める「今治タオルプロジェクト」をスタートさせました。
ブランド力の強化・認知、品質の向上、新商品の開発など様々な面から「今治ブランド」を構築していき、現在の今治タオルへとつながってきました。
今なお「今治タオル」の認知度はあがり続け、生産が追い付いていない状況もあるほどに人気を博しています。
「タオルを使う人に感動と最高の使い心地を」
今治だけはなく、すべてのタオルを生産している方に言えることでもありますが、そんな願いを込めて日々作られています。
和雑貨わらいやが自信を持ってオススメしている今治タオルです。
以上、店長ひらたつでした!!
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